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| やきもの |
さて,なぜ,焼き物なのか。 それは、身近な所に伝統のある堤焼きがあるからだ。 元々は,300年ほど前らしい。

これが愛用の堤焼きの湯飲み。四代目、針生乾馬氏の作。 この緑色が、堤焼きの特長のひとつである。 らしい。 初代の乾馬が、三浦乾也に陶芸を学んだことは、先にも記した。この初代、庄子乾馬は乾也に学ぶ前、安代縫殿之介友実に陶芸を学んでいる。安代は名取春仲の統伝を受け継いだ須江充頼の次男。岩出山で上野目焼きという焼き物を作っていた。
神道、坤輿万国全図、紅花商人、陶芸、砲術、和歌、、、文化は続くよどこまでも・・・そりゃそうだ。人は天文だけを学ぶに非ず。
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| 山形の豪商・高田屋を追う(3) |
そもそも、名取春仲の山形門人に関しては、ある仮説を持っている。 4、5年前。ネットで調べものをしているうちに、見つけたのが山形の七不思議というお話。 http://mumin.s1.xrea.com/yamagata/wander.html こんな面白い話を見つけ、笑いもせずに唸ってしまう人は他にいないだろう・・・。 さて、先の19人以外にも、名取春仲には山形の門人が多い。 春仲の記録は、文政年間がごそっと抜けており、門人は更にいたと考えている。 仲八 東根村(東根市) 遠藤三七 土生田(村山市)組頭 塩野小四郎 長瀞村(東根市)名主 太田幾右衛門 後沢村(東根市)名主 鷲塚甫仲(陰陽師?) 喜平治 権内 結城常吉 である。また、春仲の門人ではないが、この学問を学んだ山形の人物に 三浦義和 東根市 若宮八幡神社神官 がいる。これらの人々が、地域のリーダーであることは、ある程度掴んでいた。 今回の調査で解った豪商といい、東根中心の門人と言い、 やはり、地域の代表を務める人々が多いのである。 もちろん、それなりのお金がかかるからであろう。 お金をかけてまで学んだ意味って何だったのだろうか? それが、地域の人々に、どのような影響を与えたのであろうか? もしかしたら、この答えが山形の下水道の事例に見いだせるのではないか? と、思うのである。
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| 山形の豪商・高田屋を追う(2) |
さて、寛政六年春仲宛に入門を願う19人連名の書状がある。いずれも山形の人。 なぜ,いっぺんに19人? 寛政三年に土御門家の全国支配が法律化されたので, 入門を願う人々が,一気に押し寄せたのだと解釈していた。 西谷儀右衛門,同與市,後藤忠兵衛,草苅清兵衛,同伊兵衛 名取勘兵衛,長谷部権治郎,佐久間善兵衛 高田忠蔵,大沼勘四郎,斎藤傳次郎,中村可吉,小林八五郎 西谷清八,金剛院,慈眼院,鈴木栄吉,同重吉,桜井弥太郎 このうち,素性がすぐに解ったのが,修験の金剛院。寺子屋を開いていたという。被災地などの史料保存でめざましい活躍をしている,O史料調査会のSさんから,”この人(誰か忘れた)紅花商人ですよ?”という指摘も頂いていた。今回,高田家が商人だったということで閃いた!この19人は,山形藩商工会議所の人たちではないか? 山形に縁の無い私は気づかなかったが,”大沼”と言えば,創業300年の大沼デパート。 大沼勘四郎は七日町で検断,名主などを務めていた。 金剛院は,行蔵院支配の町修験で下町に住み,旅篭町で寺子屋を経営していたという。 西谷儀右衛門は,秋元但馬守領分 山形町取締方とあるほか,薬師堂再建の祭には,やはり寄付を求められているので商人であろう。同與市とあるのは,その身内。なお,山形の最有力商人である十日町の西谷清兵衛家,金兵衛家とは別。草刈伊兵衛は,他の商人と一緒に灯籠に名前が刻まれている。草刈清兵衛は父か? また,名字の一致する人として, 三日町 小林五兵衛(豪商) 不明 小林七右衛門 三日町,八日町 鈴木甚蔵(荷問屋) 不明 鈴木彦兵衛 横町,十日町 中村勘介,太惣治,太兵衛,喜兵衛 旅篭町 後藤小平治(旅篭,検断,名主:寛政頃) 旅篭町 佐久間屋(旅篭) 旅篭町 小林屋(旅篭) 七日町 斎藤忠兵衛(検断:寛政頃) 北山形 斎藤吉兵衛(竜門寺家来) 皆川町 斎藤甚右衛門(検断) 不明 斎藤長松,傳吉,安兵衛,又吉 などが見つかるものの,前出との関係は不明。 更に,青柳氏の前に,坤輿を所有していた丸十呉服店は, 江戸から続く豪商・佐藤利右衛門(利兵衛)家と判明。

七日町と大沼デパート
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| 山形の豪商・高田屋を追う |
青柳家から見つかった坤輿万国全図の一番古い所有者と思われる 高田家は薬種商をやっていたという。 そして、名取春仲には、寛政六年に入門した高田忠蔵がいる。 山形の商業の中心地であった七日町に高田忠蔵はいたことが判明。
城城城 城城城 | ======山形駅===========JR== | 大手| 十日|十日七日旅篭|旅篭六日薬師 − −−−−−−+−−−−−−|旅篭六日薬師 十日|十日七日七日|旅篭緑町薬師堂 |
(山形市史編集史料10) 文化14年4月3日、お上に出された書状 七日町 検断 斎藤忠兵衛 高田忠蔵
検断と言えば、町内会長と言ったらいいのであろうか? とにかく、その地区の有力者である。
(山形市史編集史料10) 天保12年6月、有力な商人に寄付を求める書状 高田弓太郎 様
火事で焼けた薬師堂を再建するから、今後五年間の売り上げの一部を寄付してね。 と言う呼びかけに応じているうちの一人。
(山形の歴史 後編) 時代不明 同じ薬店で七日町大津屋高田九十郎という豪商・・・ 安政頃 東講商人鑑 和漢薬種所 七日町西側 高田屋弓太郎
なお、他に文久頃の人として高田金兵衛、高田為太郎,為次郎が登場する。 このうち、金兵衛は十日町の書籍商であり,為次郎は十日町の小間物商とある。為太郎は,次郎と関連があると思われるが不明としておこう。 さて、高田家が坤輿を模写一件で、もうひとつ興味深い事実を見つけた。 弘化、嘉永年間に、山形の画家に納めた品物である。 生間似合(襖、書画用の大型紙) 拾壱枚 晒胡扮 四拾匁、藍花 二十匁、雲母 十一匁 にかは、明礬(みょうばん)
まさに画材。薬種商って、こういうのも扱っていたことが解った。 高田家の手を離れた坤輿は,水野家に渡るが, 水野家って,もしかして山形藩&知事の水野家?
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