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| 明治天皇聖蹟志 |
K先生のヒントは『明治天皇聖蹟志』。 明治9年と14年に明治天皇が東北地方の視察に来たときの記録。 大正14年に県から出版された本。 150人近い人々がいくつもの宿に泊まるのだから、その中に岩井屋があるかもというアドバイス。 確かに仙台で宿泊したときの宿が20箇所くらい記されていたが、宿名は書いていない。丸之誰兵衛方とだけ。宿屋なのかも確認できなかった。 ん〜、岩井屋の壁は厚い。
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| 岩井屋(2) |
今日までの調査結果。 (1)忠敬の記録に国分町とあるから、泊まったのは恐らく国分町。今で云うと、芭蕉の辻から定禅寺通りまでの区間。そこから北は、二日町と呼ばれていた。(今でも大体そうだけど。)
(2)観測記録を素直にプロットすると、二日町になってしまうが、観測精度を考慮すると国分町も含まれる。 (3)伊能図にある観測地点を表す☆印は、論外。精度が悪すぎる。 (4)国分町の豪商に岩井さんはいる。 ただし、通常、苗字と屋号は別物。岩井さんが経営していても、岩井屋であるとは限らない。
(5)しかも、(伊能家と同じ)酒屋の岩井さんも仙台にいた。 (6)江戸時代の地図をひっくり返しても解らない。 武士の家にはちゃんと名前が記されているが、町人の家には”町人”としか書いていない。 (7)昔の人は漢字に関しては、結構イイカゲンだから、岩井屋は磐井屋かもしれないし、祝屋かも。。。 以上からすると、国分町の北側、定禅寺通り寄りというのが妥当な線で、第一候補。
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| 岩井屋 |
伊能忠敬が泊まったという、国分町の岩井屋という宿。 先日、この話をしたら郷土研究会のK先生にアドバイスを頂いた。 「あの本を調べれば、わかるかも」 明日、調べてきま〜す。
そういえば、私が住んでいるところは奥州街道沿い。 毎朝、地下鉄の駅へと急ぐこの道を忠敬は三度歩いたのだなぁ。。。 ただでさえ、忠敬関連史料の少ない仙台。 せめて、泊まった宿を突き止めたい。
(享和元年十一月) 仙城國分町八ツ半頃ニ着,宿岩井屋源之丞 此日晴曇夜丑頃迄曇五ツより晴天 同廿三日 逗留、朝より雪八ツ後ニ至夜も小雪空ハ晴間アリ、測量 同廿四日 朝六ツ半頃国分町出立
享和元年十一月二十三日。(1801年12月28日) 今日は朝から雪、夜も小雪だったが晴れ間もあったので測量した、とある。年の瀬だ。
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| 東講商人鑑 |
昨日、Mテークで見つけたものは「東講商人鑑」。 山形の一件で、色々調べているうちに知った本。 幕末に出版された、東日本各地の店や宿を紹介しているガイドブックであり、J○B協力店一覧とか全国近畿○本ツーリング指定店ガイドといった類の本。 探したかったのは、伊能忠敬の仙台に於ける宿である岩井屋の情報。 「東講商人鑑」は、神戸大学図書館のものがネットで見られる。
東講には加盟していなかった。
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| 伊能忠敬関係文書目録 (2) |
ふとしたきっかけで,Uさんとは1年ほど前から情報交換をするようになった。桑原家のことも随分とお調べになっているようで,日記の存在もお知らせしていた。”そのうち,見てきますから・・・”と。 実際に見たのは今月初め。図書館の相談窓口に行って事情を話すと,程なく,マイクロ資料として閲覧できることが判明。早速,見る。そして,家族構成や履歴のようなものが書いてある所を見つけ,10枚ほどコピー。 家に戻り資料をよく見る。やはり探していた忠敬の義父の隆朝(純曽)ではなく、子(如則)と孫(如弘)の記録である。とりあえず系図を作り,年齢から生まれた年を特定する。天保七年当時、如弘33才。文化元(1804)年生まれ。次男なんとか三郎、26才。文化八(1811)年生まれ、、なるほど。 ところで、忠敬の義父での桑原隆朝は「赤蝦夷風説考」の著者である工藤平助とも姻戚関係にある。平助の息子が若くして亡くなったので、文化五(1808)年に桑原如則の二男が工藤家を継ぐと、『伊達世臣家譜』に記されている。 ん? 文化五年に養子? 如則の二男は文化八年生まれ。 如則と二男の間に、養子に行った次男がいたとしても,2〜3才で養子として家を継ぐのか? 伊能忠敬 | +−桑原隆朝−+−のぶ | | | +−如則−+−如弘(文化元年生) +−−姉 | | |(文化八年生) 工藤平助−−−鞏卿 +−次男(文化五年工藤家を継ぎ静卿と名乗る) (文化四年没)
この事実に気がついて,慌ててUさんにメールした。 制作中の忠敬の目録はやっと校了になり,間もなく本になります。 静卿は,如則の次男として系図を書いてしまいました。 と,お返事を頂いた。。。 しまったぁ! 今年の三月をめどに,目録を作成していると,以前,聞いていたのに。。。なんとも間が悪い。 これも,継続調査事項。
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